岸優太を哲学したい

映画オタクが岸くん沼にはまるとこんなことを考えますの典型

不器用なピューリタンに愛の言葉を

私にとって、岸くんの言葉はいつも哲学である。


どうにか紐解こうともがいても、彼は簡単にはその真意を探らせてくれない。プライベートの写真を載せながら「自分だけの宝物を見せちゃうみたいで、みんなと共有したくなかった。けど、見せる気になったので」と言葉にするように、自他ともに認める〝グループ一実生活がミステリアスな男〟であるように、彼は大切なことはいつも密やかに自分の心の奥だけにしまっている。私たちに見せようとすることはほとんどない。私たちはそれが現れてくれる貴重な瞬間を、ただひたすらにじっと待つだけだ。


それは〝皆のために存在する岸優太〟と〝皆のために存在しているわけではない岸優太〟の境界線なのだろうと思う。彼なりの基準でつくられたそれは、曖昧で不確かなように見えて、思いのほか整然と線引きされている。確固たる信念に基づいて引かれたであろう岸くんの境界。大切なことをその向こう側にたくさんしまうので、ときどきその端くれが気まぐれにぽろりと零れ落ちてしまうことがある。

私たちはそれを拾う。じっとおとなしく待ちわびた末に、岸くんが思いがけず取り零したそれを、壊さないように、つぶさないように、私たちは大切に丁寧に拾い上げる。そして想像する。岸くんのなかで、境界の向こう側で、この欠片はいったいどんなふうに育まれてきたのだろうか、と。


「この先、例えば、本当に人生山あり谷ありですけど」


彼は真っすぐな目でカメラを見つめ、前置きしてから語り始める。「自分の目標に突き進まなきゃいけないし、」そう言って何かを提示するように片手を動かし、「もっと人を喜ばせなきゃいけないし、」同じようにまた、もう片方を提示する手振りを交えて話していく。そこでふと言葉を切った彼は、少し上前方、どこか遠くを見据えるように目を細めた。

「しまいには、」そして半呼吸を置いたのち、彼はさらに言葉を続ける。


「生き続けなきゃいけないしっていうか」


彼は自分自身に言い聞かせるようにして、何度も小刻みに頷いた。「人生において、」そう言って視線を落とす。「大切な言葉だと思いますね、なんか」言葉を選ぶように語尾を濁して締めくくった彼の表情が、どこか苦々しくゆがんで見えた。


〝Show must go on〟彼らの身体に何よりも良く染みついたその言葉は、外国語であるが故、日本人にはその意味の捉え方に少しずつ差異がある。広義的には同じ意味をもつとしても、その奥にひそんだニュアンスはひとりひとりどこか違っていたりする。

King & Princeが語る〝Show must go on〟。ショーは続けなければならない、そこに続く言葉が、それぞれ皆異なっていた。


ショーは続けなければならない、自分の使命を果たすべく。海ちゃんが言う。
ショーは続けなければならない、その意味を探し続けながら。廉くんが言う。
ショーは続けなければならない、皆を明るくするために。神宮寺くんが言う。
ショーは続けなければならない、それが平和の象徴だから。紫耀くんが言う。


それぞれの〝Snow must go on〟があった。

ただ、私は岸くんの〝Show must go on〟に、逃れられない宿命に似た負荷なようなものを感じていた。


突き進まなきゃいけない。喜ばせなきゃいけない。生き続けなければいけない。彼が立て続けに口にした「しなければいけない」。「must」の単純な和訳。自身に課した強制。それは、岸くんの意識のなかに、間違いなく色濃く存在している。


ショーは続けなければならない、いかなる理由があろうとも。

岸くんにとっての〝Show must go on〟は、私にはそんなふうに聞こえた。


わたしは岸くんがそうして自分に負荷をかけることを、不安に思うことは不思議とあまりない。それが彼の昔からのスタンスであり、だからこそ「must」の強制を自分の人生にも投影することができる人だ、と常々思っているからだ。

同じ番組で、いつかの岸くんの姿が脳裏に浮かんだ。鏡に映る自分自身に鋭い視線を投げながら、周囲の声も聞こえなくなるほど懸命に踊り続ける。その姿に、精悍な横顔や、濁りない目や、逞しくも華奢に映るその背中に、「とにかく動いていないと、血液が回らなくてダメな感じがするんですよね」という言葉を思い出す。彼はさながらピューリタンのように禁欲的で実直だった。病的に自分を戒めながら、自身の成長を信じて猪突猛進に進んでいく。

自身を馬だと卑下する彼の姿勢は、時に周囲から「ストイックだ」と評される。しかし私には、「自分は甘えてしまう人間だから」といつも意図的に自分に課題を設け、苦しみ、戒めているように思える。自分に何かを課さないと、自分は甘えてしまう人間だから。どれだけ頑張っても、その成果が如実に顕れても、決して納得しないのは、そこで終わらせてしまえば、自分が甘えてしまうから。

自らを鼓舞してあげなければ、自分は甘えてしまう人間だから。


メンバーが出演する「Johnny’s Island」を観劇したあとの舞台裏、静かにきれいな涙を流していたことがまるで嘘のようにカラッとした笑顔で、「良かったよ、ソウルだったよ」と口にする。彼が口を開けば、その空間には笑顔が広がる。それが自分の役目だと知っているから、彼は自身の役目を全うする。

〝皆のために存在する岸優太〟であるために。

暖簾の隙間から覗く彼の飾り気のない横顔に、「しなければならない」を背負って生きる人生の覚悟が見えた気がした。


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だからこそ私は、「しまいには、生き続けなきゃいけないし」とそのとき口にした彼の真意を、あの日からずっと考えている。彼が「生き続け」ようとする対極にあるべき死というのは、岸優太というひとりの人間の生命が絶たれることを意味するのではなく、〝皆のために存在する岸優太〟として生きていく意義を失うことではないかと思っている。私たちの前に存在している限り、彼は〝Show must go on〟という言葉を自身の人生に重ね続けるのだろう。


ショーは続けなければならない、いかなる理由があろうとも。
岸優太は生き続けなければならない、いかなる理由があろうとも。


そんな境界線の向こうの声が聞こえてくるような気がした、そんな言葉だった。


「しまいには、生き続けなきゃいけないしっていうか」