岸優太を哲学したい

映画オタクが岸くん沼にはまるとこんなことを考えますの典型

秋の人へ送る拙いラブレター

岸くんは〝秋の人〟。そういう意識がわたしのなかに常にある。

彼自身、自分のことを「夏男」と評している。悪くはない。確かにそうだ。彼の風貌、キャラクター、パブリックイメージが、ひたすらに「岸優太は夏男」だと言っている。まったくもってまことにその通りだと思う。
けれど、2018年から少しずつ、自分なりに彼を紐解こうと試みてきた私には、どうしたって岸くんは「夏男」で済ますにとどまらない男なのではないか、と思えてしまう。というよりむしろ、私にとって岸くんの季節は決して夏ではないのだ。

「秋」だ。岸優太という男は、〝秋の人〟。
夏の終わりの気配を感じ、少しずつ波が去り、夜が増え、夏とは違う静かな騒々しさがゆるやかに押し寄せてくる「秋」のなかに、岸くんが確かに存在している。と、私は思っている。

「夏が去るときの夜風のにおい。夜風から〝もういなくなっちゃうよ〟って語りかけてくれるような、サヨナラのにおいがする」

これは、2019年の秋、アイドル誌に掲載された岸くんのコメントである。岸くんのファンなら、とくに岸くんのテキストが大好物の方には、たまらない一文だと思う。
夏が終わることを「去る」という。夜風が「語りかけてくる」という。ささいな「におい」から聞こえない言葉をどうにか聞き取ろうとする。そしてなにより、この人は夏の終わりに訪れる感傷を知っている。それを、こんなにもやさしくやわらかく表現してくれる。
こんなに感性が豊かな人っているのだろうか。いや、いたとして、まるで元気印のお祭り男と言わんばかりにおバカキャラを炸裂しながらアイドルをやっていていいのだろうか。

とりあえず、こんなやさしくて美しい詩的な一文を、アイドル雑誌の毎月恒例ひと言コーナーにもったいぶることなくさらりと載せてしまうほどにはまあなかなかのずるい男である。

元より、岸くんという人は「におい」にひと際繊細な人だな、と思っている。
テキストやコメントで、ことあるごとに彼は「におい」を口にする。懐かしい場所。大好きな人。お気に入りのもの。パブリックイメージ。いろんなものを「におい」で例えることがある。動物園のにおいだとか、横アリのにおいだとか、そういうささいなものですら。
なんだってにおいを嗅ぎ分けて、「このにおいはこう」「このにおいはあっち」と自分のなかにある〝においの記憶だんす〟の引き出しに仕舞っておく。それは彼にしかわからない感度で分けられているから、どんな仕舞い方なのか私たちにはきっと理解できない。でも、何かの拍子に「あ、あのにおいと一緒」とか「このにおいはあれに似てる」とか、〝においの記憶だんす〟に大事に仕舞いこまれていたものがふと彼の鼻をついて引き出しから飛び出てくることがあって、そういう瞬間をファンである私たちはありがたくも共有させてもらって、彼の「におい」に対する感性を少しだけ味見させてもらうような贅沢を経験する。

彼の「におい」に対する感性や言葉はすごく好きなのだけれど、その何が嬉しいって、〝ああ、きっとこの人は、こういうにおいの記憶を手繰り寄せては、いつもひそやかに満足したり、小さな幸せに浸ったりしているのだな〟と想像が容易にできてしまうことだ。
想像のなかの岸くんの姿がなんだかあまりにも微笑ましいので、つい、どうしようもなく愛しく思えてくる。だからこそ、岸くんが語る「におい」が恋しくて仕方がないのだ。

もうひとつ、岸くんが〝秋の人〟である、と定義するに欠かせないのが「エンターテイメントを好むところ」である。「文化の秋」ともいえる、秋には欠かせないエンターテイメント。例えば映画だったり、本だったり、舞台だったりする。そのどれもに関心を持ち、なお、口先ばかりではなく実際に手を出し、足を運ぶ。ライフワーク。そういう文化に長けているという点においても、岸くんはまことに〝秋の人〟なのだ。
私が岸くんを推すうえで「映画好き」であることは、絶対的な要素だった。彼の口から出てくる聞きなれた作品名が、なかなか渋かったり、チョイスが新鮮だったり、決して今流行りのシネコン系大衆映画ばかりではないところに強く惹かれた。
しかも、そういう作品を語るなかで、彼はたいがい「この役者さんに惹かれた」「こういう役をやりたいと思った」とコメントする。鑑賞して終わるのではなく、きちんと「岸優太」という仕事にフィードバックしようとする。ただ娯楽を楽しむだけではない、勉強熱心で意外にも好戦的なその姿勢が、やけに好印象だった。

岸くんが挙げた映画作品で私がもっとも興味深かったのは、「ジャージー・ボーイズ」だった。「ジャージー・ボーイズ」は、もともとはブロードウェイ・ミュージカルである。実在したバンド、フォー・シーズンズをモデルに彼らのグループが結成し、成功を収めるも様々な問題のなかで確執が生まれていくようすを描いた伝記的作品であり、2016年に映画界の巨匠クリント・イーストウッドがこれを映画化した。
岸くんは「ジャージー・ボーイズ」の映画を観ていたく感動したというが、その日本版ミュージカルを観て、さらに感動を深めたらしい。そして、それを語るたびに主演の中川晃教さんに対して熱いラブコールを送っている。
私の知る限り、誌面ではあるがすでに三度はこの作品名を挙げている。よほど彼の胸に強く残ったのだろうなと想像するし、私自身この作品は「面白かったな」と鑑賞した作品だったので、彼がことごとく「ジャージー・ボーイズ」を称賛しているのは何だか誇らしかった。

岸くんと映画について語ると、岸くんに薦めたい映画がいくつもあるな、と思う。というか、素晴らしい映画に出合うたびに「こういう映画、岸くん好きそうだなあ」と真っ先に考えてしまう。個人的な見解だけれど、先に挙げた「ジャージー・ボーイズ」もそうであるが、伝記的ミュージカルのジャンルは、とくに彼の好物に違いないと思う。
確か「ボヘミアン・ラプソティ」も観たと言っていたはずだ。あとは「イエスタデイ」(伝記とは少し異なる)も岸くんの好みっぽい。ここ最近で言うと、おそらく彼は観ていないだろうがお薦めしたいと思ったのは、レネー・ゼルウィガー主演、伝説的歌姫ジュディ・ガーランドの半生を描いた「ジュディ 虹の彼方に」だった。これは大変良かった、ミュージカルとしても、映画としても、ジュディの魅力を存分に描くにしても、ゼルウィガーの圧巻の演技を堪能するにしても。

そんな感じで、エンターテイメントと私との間をつなぐように、「岸くんは観たかな」「岸くんこういうの好きかな」という思考がいつも頭のなかを巡っている。それに出合う瞬間が楽しくて仕方がないのだけれど、そういう楽しみを与えてくれた岸くんには感謝しかないし、これができるのもまた岸くんが〝秋の人〟であるがゆえだな、と改めて思う。

私にとって岸くんの魅力は、言葉で語りつくせるものではない。ましてや目に見えるようなものでもない。対外的に発生する彼のイメージとは裏腹に、彼はとても穏やかで、繊細で、美しい人だと私は思っている。少し触れるだけではわからないような彼の魅力にはどんどん惹かれていくし、もっと知りたい、もっと見ていたい、という欲求は日ごとに深くなる。
まさに「沼」。彼の魅力にハマった人間は、この現象を「沼」と称するけれど、まさにそんな感じ。抜け出せないどころか、知らぬ間にどんどん沈み込んでいく。気づいたときには時すでに遅し、恐るべし。その「沼」のなかに、身体いっぱいどっぷり浸かってしまっている。

彼が身にまとう色は、パステルカラーの春でもなく、ビビットカラーの夏でもない。ましてやグレイッシュな冬でもなく、彼は、温かくて穏やかで、柔らかい秋の色がとてもよく似合う。やさしい感性と豊かな表現力、そしてエンターテイメントに対する飽くなき愛情をどこまでも大切にしている人。だからこそ、彼からじわじわとにじみ出す秋の色。
その美しいものたちを、どうかなくさないで。いつまでも持っていて。

秋の空気を身体いっぱいに吸い込んで、そのにおいを、景色を、身体じゅうに染み込ませながら願う。私の大好きな〝秋の人〟が、きょうもあしたも、どうか幸せであるように。

Happpy Birthday KC !