岸優太を哲学したい

映画オタクが岸くん沼にはまるとこんなことを考えますの典型

「岸くんと私」 宇宙を漂う旅人の手記

私にとって、アイドルに恋することは宇宙を旅するようなものだ。アイドルとは壮大なロマンであり、果てなき夢に溢れ、未だ解き明かすことのできない謎を秘め、無限の魅力を持て余している。ひとたび彼らに惹かれてしまえば、たちまち強大なブラックホールに吸い込まれもするし、ふいに豪速で飛んでくる隕石にぶつかりかけることもある。うかうかしていると無重力空間に投げ出され、あっという間に自身が彗星と化してしまう、だから私たちは一切の不備もなく入念に「宇宙服」を身に着けて、心を決めてから広大な宇宙へと泳ぎ出す。

 

ただ、ときどき、私は旅の目的を見失う。なぜ旅をしているのか。なんのためにしているのか。旅をして何を見るのか。旅をした先にいったい何があるのか。そこで疑問が浮かんだからといって、目の前に正解が彗星のごとく飛んできてくれるわけではない。私は真っ暗でだだっ広い宇宙の片隅でひとり、ぽつんと浮遊しているだけだ。

 

言わずとも知れたそのような単純な疑問は、例えば私が岸くんの何かに不快感を抱いたとか、いわゆる熱が冷めたとか、そういう理由から生まれるものでは決してない。ただ、突然、ふいに降りてくる。なんでもないときにふと「あれ、私いまここで何していたんだっけ」と立ち止まって顎に手を触れるような感覚で、「あ、いまの瞬間の顔好きだな」「こういうコメント胸が震えるな」と感想というには甚だしい程に語彙力を失った感想がぱっと頭に思い浮かぶのと同じように、私のなかに突如として芽生える。

そして、ひとしきり考える。どれだけ頭をひねっても、逆立ちしても、決して答えの出ない疑問について、宇宙をふわふわと浮遊しながら私はひたすら考えあぐねいているのだ。

 

アイドルという孤高の存在は、まるで宇宙の神秘のように魅力的である。壮大で儚い。太古の昔から万物の霊長は宇宙に想いを馳せ、希望を託し、夢を描き続けてきた。その永い歴史をもってしても解き明かせないからこそ私たちは渺茫たる大宇宙に今も翻弄され、求めずにはいられない。これはまことに私がアイドルに求めるそれに合致する。

画面のなかで笑顔を見せる彼しか、ステージの上で歌い踊る彼しか、私たちは知らない。だからこそ好きでいられる。太陽に照らされ光源となりうる月のように、「私たちがどれだけ目をこらそうと肉眼では捉えられない表情が確かにある」と認める部分があるからこそ、強く、強く、惹かれてしまうのだろう。

 

ただ、その正体がなんなのかわからなくて、ときどき怖くなることがある。宇宙における自分は何者なのか。岸くんを好きでいる自分は何者なのか。岸くんを前にした私はただの宇宙を漂うひとりの旅人なのに、その一人称からはみ出して、まるで月か太陽かもしくは何か大きな惑星の上から、俯瞰した自分をはじき出そうとするときがある。そんな自分が怖くなって、「岸くんと私」とはいったいなんなのだろう、とふいに眠れなくなる夜がある。

 

「岸くんと私」の関係は、月と地球のようなものなのかもしれない。そのような考えが頭に浮かんだとき、突然、心の中でざわついていた虫がしゅんと静まり返った気がする。

 

月は地球のまわりを公転している。単純な私たちは、アイドルである彼らについてあたかも全方位から知り尽くしたようにわが物顔になってしまうが、実のところ、私たちが彼らのまわりをぐるぐると周回しているのではなく、アイドルのほうが私たちのまわりを器用に抜かりなく回り続けているに過ぎない。

私たちが決して立ち入ることのできない、目にすることのできない彼らの世界がある。にこりと笑顔を振りまきながら、その裏側を決して私たち見せることはない。太陽というスポットライトが当たってこそ真っ暗な夜を煌々と照らし、私たちの道標となってくれる月だけれど、闇夜のなかに隠れて目に触れない彼らの一部というものは、確かに存在している。

 

その光の加減によって私たちは彼らを近くに感じたり、遠くに感じたりするが、私たちの距離が大きく変わることはない。顕著に離れはしないし、近づきもしない。例え、私たちがライブやイベントで彼らに物理的な近さを感じようが、渡米の夢を語る彼らに精神的な遠さを感じようが、月の軌道は地球からおおよそ一定の距離にある。例外的に月食が起こることもあるけれど、ほとんどの場合、それらは単なる錯覚ないしは各々の主観に他ならない。

 

仕事や、家事や、学校生活といったアイドルと結びつくことのない私たちの実生活を、夜に対して昼と定義するならば、昼間の彼らはそっと私たちを見守ってくれている。心が折れそうなときにまっさらな空を見上げれば、時折うっすらと顔を出して、私たちを励ましてくれているようにも思える。

 

そんな「アイドルである彼」と「ファンである私」の実質的な距離が、果たして「近い」というべきなのか「遠い」というべきなのか、私にはわからない。しかし、「岸くんと私」は確かな距離を保っているから好きでいられるのだと思う。岸くんが今日も画面のなかで確かに「岸くん」をしてくれていて、それを画面の外で微笑ましく眺めているわたしは間違いなく「私」なのだ。それだけは揺るぎない。その距離を留めておくことが、「岸くんと私」でいられる唯一の原理なのだと思う。

 

いまなお宇宙についてはいくつもの研究がされている。著名な学者たちによって唱えられるそれらのひとつひとつが、私にはとても難しくてよくわからない。まず発想が想像外にあるし、そのような疑問すら思い浮かばない、丁寧に解説されたとしても、それを理解しようとも思わない。

宇宙のしくみというものは、恐らく地球上に生きる私たちが解き明かしてはいけないパンドラの箱のような謎にあふれているのだろう。解き明かすまでの過程がロマンであって、小学生が学ぶ加減乗除のように当たり前の存在になってしまえば、それまで溢れんばかりに光放っていた唯一無二の魅力は途端にかすみ始めるに違いない。

 

月は毎年、地球から三センチずつ遠ざかっているという。何億光年向こうの星が光り輝いて見える宇宙空間における〝三センチ〟という距離は、アスファルトの上で一瞬にして乾いてしまいそうな雀の涙だ。例えば、その距離が伸びていくことによって、私たちが過ごす一日の長さだったり、地球の傾きだったり、地球上でこそ生きていられる私たちに大きな影響を及ぼす可能性もなくはない。

ただ、それはずっと遠い先の話だ。私たちが死んでから、ずっとずっと後の話だ。昨年離れた〝三センチ〟がきょうの私たちにもたらすものは、ぶらりと垂れさがったなんの変哲もない日常だけだ。いま、離れていく〝三センチ〟は、確かにいつか私たちの生活を大きく変えることになるかもしれないけれど、彼らは今日もまた、変わらず私たちのまわりを一定の距離を保って回り続けているに過ぎないのだろう。

 

それでも私は思う。夜半になると、窓から覗く月を見つめて考える。

 

地球にいる私たちは月の存在を強く認識しているけれど、月にとって地球はどういった存在なのだろう。ひとりひとりの人間なんて見えていなくていい。闇夜を照らそうと一生懸命に身を挺さなくてもいい。ただ、その距離から、「地球は美しいのだな」「地球がそこにあってよかったな」と、月がそう感じていてくれるのであれば、私はそれだけでいい。

 

そんなふうに思う、12時がすぎても523日の魔法が解けないアラサーの独り言である。