岸優太を哲学したい

映画オタクが岸くん沼にはまるとこんなことを考えますの典型

「君の名前で僕を呼んで」

人懐っこく無邪気な17歳のエリオ、自信家な24歳の青年オリヴァー。
北イタリアの避暑地で彼らは出会う。はじめは単なる好奇心と社交辞令でオリヴァーに対する友情を抱くエリオ。しかし、それはしだいに、自分とは正反対のオリヴァーへの嫉妬心となり、やがて、自分が投げたものをひらりと交わすような飄々とした態度で、素性の見えないオリヴァーに対する淡い感情へと変化していく。

この過程は丁寧に描かれながらも、どこか掴み所のない曖昧な描写が繰り返される。自分の感情をうまく咀嚼できないエリオ。どちらともとれるような行動で翻弄するオリヴァー。それがまた、もどかしくも切ない。
あとから考えれば、オリヴァーに対する想いの変化は確かにありながらも、17歳の彼ですら無自覚の、本質的な恋心(ひとめぼれのような)があったのではないかと思う。

同性愛の美しい恋愛といってはそれまでですが、一言それで終わるにはとてめ惜しい映画。
彼の17歳のひと夏の経験っていうのは、この世のすべての喜びと挫折、すべてを認め、許し、終わらせる。彼のなかにこれまで育ってきたすべてが放出されるような瞬間。そして、彼は18歳になっていく。

17歳ってとても繊細だと思うんです。なにか心のギリギリの橋を渡っているような、危うさがある。【17歳のバカンス】といえば、ジーン・セバーグの魅力がふんだんに描かれたサガン原作・プレミンジャー監督の「悲しみよこんにちは」や、オゾンが現代のティーンエイジャーが持つ虚無感をうまく表現した「17歳」など、どこを切り取っても美しい映画がいくつもある。シャーロット・ゲンズブールの「小さな泥棒」も17歳だった。
それらは少女だったけれど、彼女らにひけをとらない鬱々とした美しさがエリオにはある。中性的で年相応に少年らしさがあるのに、儚げ。幼いのに大人びている。
悪いことだと知っていても一瞬の楽しさを優先させてしまう弱さだとか、無理だとわかっていてもなお諦められない頑なさだとか、それより年上になれば打ち勝てるであろう理性を、本能があがなえるギリギリの年齢がそこなのかなとおもう。まさに大人と子ども、ふたりが同居している年齢。

この映画では、同性愛映画には珍しく、後味悪いバッドエンドではない終わりが準備されている(とおもっている)。だからといって幸せに映画館を出られるわけでもないのだけれど、「同性愛映画を観たあと」に覚悟していた苦い後味は少なからず緩和されるだろう。

世界各国で絶賛されたティモシー・シャラメは、とにかくよかったです。顔も体つきも成熟してないし中性的。陰のある儚げな表情も、年相応の無邪気な表情もとてもよく出ている。
ガールフレンドとの若くて荒々しくもまだ幼い昂りのセックスと、愛するオリヴァーの前での不安げで、控えめになりながら貪欲に愛を欲する姿、ふたりのエリオはとても愛おしかったな。
きっとティモシー・シャラメがエリオを演じていなかったら、この二時間超の長丁場に耐えられなかっただろうとおもう。彼の表情に、瞳に、身体に、ずっと目を奪われていた。

そして、17歳はなにを求めているのか自分でもわからない、満たされない。だからこそふたりが迎えた一夜のあと、不安定にナイーブに描かれるのは、むしろ自信家のオリヴァーのほうだ。
きちんとそれが映画のなかに出てくるからこそ、ラストの切なさに深みが増す。エリオの目から見ても、オリヴァーの目から見ても、ガールフレンドたちの目から見ても、両親の目から見ても。どの視点から切り取っても、覆しようのない結末が愛おしくも、苦しくて、胸をかきむしりたくなってしまう。

そんなあとに引く優しい余韻を残してくれる映画でした。