岸優太を哲学したい

映画オタクが岸くん沼にはまるとこんなことを考えますの典型

秋の人へ送る拙いラブレター

岸くんは〝秋の人〟。そういう意識がわたしのなかに常にある。

彼自身、自分のことを「夏男」と評している。悪くはない。確かにそうだ。彼の風貌、キャラクター、パブリックイメージが、ひたすらに「岸優太は夏男」だと言っている。まったくもってまことにその通りだと思う。
けれど、2018年から少しずつ、自分なりに彼を紐解こうと試みてきた私には、どうしたって岸くんは「夏男」で済ますにとどまらない男なのではないか、と思えてしまう。というよりむしろ、私にとって岸くんの季節は決して夏ではないのだ。

「秋」だ。岸優太という男は、〝秋の人〟。
夏の終わりの気配を感じ、少しずつ波が去り、夜が増え、夏とは違う静かな騒々しさがゆるやかに押し寄せてくる「秋」のなかに、岸くんが確かに存在している。と、私は思っている。

「夏が去るときの夜風のにおい。夜風から〝もういなくなっちゃうよ〟って語りかけてくれるような、サヨナラのにおいがする」

これは、2019年の秋、アイドル誌に掲載された岸くんのコメントである。岸くんのファンなら、とくに岸くんのテキストが大好物の方には、たまらない一文だと思う。
夏が終わることを「去る」という。夜風が「語りかけてくる」という。ささいな「におい」から聞こえない言葉をどうにか聞き取ろうとする。そしてなにより、この人は夏の終わりに訪れる感傷を知っている。それを、こんなにもやさしくやわらかく表現してくれる。
こんなに感性が豊かな人っているのだろうか。いや、いたとして、まるで元気印のお祭り男と言わんばかりにおバカキャラを炸裂しながらアイドルをやっていていいのだろうか。

とりあえず、こんなやさしくて美しい詩的な一文を、アイドル雑誌の毎月恒例ひと言コーナーにもったいぶることなくさらりと載せてしまうほどにはまあなかなかのずるい男である。

元より、岸くんという人は「におい」にひと際繊細な人だな、と思っている。
テキストやコメントで、ことあるごとに彼は「におい」を口にする。懐かしい場所。大好きな人。お気に入りのもの。パブリックイメージ。いろんなものを「におい」で例えることがある。動物園のにおいだとか、横アリのにおいだとか、そういうささいなものですら。
なんだってにおいを嗅ぎ分けて、「このにおいはこう」「このにおいはあっち」と自分のなかにある〝においの記憶だんす〟の引き出しに仕舞っておく。それは彼にしかわからない感度で分けられているから、どんな仕舞い方なのか私たちにはきっと理解できない。でも、何かの拍子に「あ、あのにおいと一緒」とか「このにおいはあれに似てる」とか、〝においの記憶だんす〟に大事に仕舞いこまれていたものがふと彼の鼻をついて引き出しから飛び出てくることがあって、そういう瞬間をファンである私たちはありがたくも共有させてもらって、彼の「におい」に対する感性を少しだけ味見させてもらうような贅沢を経験する。

彼の「におい」に対する感性や言葉はすごく好きなのだけれど、その何が嬉しいって、〝ああ、きっとこの人は、こういうにおいの記憶を手繰り寄せては、いつもひそやかに満足したり、小さな幸せに浸ったりしているのだな〟と想像が容易にできてしまうことだ。
想像のなかの岸くんの姿がなんだかあまりにも微笑ましいので、つい、どうしようもなく愛しく思えてくる。だからこそ、岸くんが語る「におい」が恋しくて仕方がないのだ。

もうひとつ、岸くんが〝秋の人〟である、と定義するに欠かせないのが「エンターテイメントを好むところ」である。「文化の秋」ともいえる、秋には欠かせないエンターテイメント。例えば映画だったり、本だったり、舞台だったりする。そのどれもに関心を持ち、なお、口先ばかりではなく実際に手を出し、足を運ぶ。ライフワーク。そういう文化に長けているという点においても、岸くんはまことに〝秋の人〟なのだ。
私が岸くんを推すうえで「映画好き」であることは、絶対的な要素だった。彼の口から出てくる聞きなれた作品名が、なかなか渋かったり、チョイスが新鮮だったり、決して今流行りのシネコン系大衆映画ばかりではないところに強く惹かれた。
しかも、そういう作品を語るなかで、彼はたいがい「この役者さんに惹かれた」「こういう役をやりたいと思った」とコメントする。鑑賞して終わるのではなく、きちんと「岸優太」という仕事にフィードバックしようとする。ただ娯楽を楽しむだけではない、勉強熱心で意外にも好戦的なその姿勢が、やけに好印象だった。

岸くんが挙げた映画作品で私がもっとも興味深かったのは、「ジャージー・ボーイズ」だった。「ジャージー・ボーイズ」は、もともとはブロードウェイ・ミュージカルである。実在したバンド、フォー・シーズンズをモデルに彼らのグループが結成し、成功を収めるも様々な問題のなかで確執が生まれていくようすを描いた伝記的作品であり、2016年に映画界の巨匠クリント・イーストウッドがこれを映画化した。
岸くんは「ジャージー・ボーイズ」の映画を観ていたく感動したというが、その日本版ミュージカルを観て、さらに感動を深めたらしい。そして、それを語るたびに主演の中川晃教さんに対して熱いラブコールを送っている。
私の知る限り、誌面ではあるがすでに三度はこの作品名を挙げている。よほど彼の胸に強く残ったのだろうなと想像するし、私自身この作品は「面白かったな」と鑑賞した作品だったので、彼がことごとく「ジャージー・ボーイズ」を称賛しているのは何だか誇らしかった。

岸くんと映画について語ると、岸くんに薦めたい映画がいくつもあるな、と思う。というか、素晴らしい映画に出合うたびに「こういう映画、岸くん好きそうだなあ」と真っ先に考えてしまう。個人的な見解だけれど、先に挙げた「ジャージー・ボーイズ」もそうであるが、伝記的ミュージカルのジャンルは、とくに彼の好物に違いないと思う。
確か「ボヘミアン・ラプソティ」も観たと言っていたはずだ。あとは「イエスタデイ」(伝記とは少し異なる)も岸くんの好みっぽい。ここ最近で言うと、おそらく彼は観ていないだろうがお薦めしたいと思ったのは、レネー・ゼルウィガー主演、伝説的歌姫ジュディ・ガーランドの半生を描いた「ジュディ 虹の彼方に」だった。これは大変良かった、ミュージカルとしても、映画としても、ジュディの魅力を存分に描くにしても、ゼルウィガーの圧巻の演技を堪能するにしても。

そんな感じで、エンターテイメントと私との間をつなぐように、「岸くんは観たかな」「岸くんこういうの好きかな」という思考がいつも頭のなかを巡っている。それに出合う瞬間が楽しくて仕方がないのだけれど、そういう楽しみを与えてくれた岸くんには感謝しかないし、これができるのもまた岸くんが〝秋の人〟であるがゆえだな、と改めて思う。

私にとって岸くんの魅力は、言葉で語りつくせるものではない。ましてや目に見えるようなものでもない。対外的に発生する彼のイメージとは裏腹に、彼はとても穏やかで、繊細で、美しい人だと私は思っている。少し触れるだけではわからないような彼の魅力にはどんどん惹かれていくし、もっと知りたい、もっと見ていたい、という欲求は日ごとに深くなる。
まさに「沼」。彼の魅力にハマった人間は、この現象を「沼」と称するけれど、まさにそんな感じ。抜け出せないどころか、知らぬ間にどんどん沈み込んでいく。気づいたときには時すでに遅し、恐るべし。その「沼」のなかに、身体いっぱいどっぷり浸かってしまっている。

彼が身にまとう色は、パステルカラーの春でもなく、ビビットカラーの夏でもない。ましてやグレイッシュな冬でもなく、彼は、温かくて穏やかで、柔らかい秋の色がとてもよく似合う。やさしい感性と豊かな表現力、そしてエンターテイメントに対する飽くなき愛情をどこまでも大切にしている人。だからこそ、彼からじわじわとにじみ出す秋の色。
その美しいものたちを、どうかなくさないで。いつまでも持っていて。

秋の空気を身体いっぱいに吸い込んで、そのにおいを、景色を、身体じゅうに染み込ませながら願う。私の大好きな〝秋の人〟が、きょうもあしたも、どうか幸せであるように。

Happpy Birthday KC !

「岸くんと私」 宇宙を漂う旅人の手記

私にとって、アイドルに恋することは宇宙を旅するようなものだ。アイドルとは壮大なロマンであり、果てなき夢に溢れ、未だ解き明かすことのできない謎を秘め、無限の魅力を持て余している。ひとたび彼らに惹かれてしまえば、たちまち強大なブラックホールに吸い込まれもするし、ふいに豪速で飛んでくる隕石にぶつかりかけることもある。うかうかしていると無重力空間に投げ出され、あっという間に自身が彗星と化してしまう、だから私たちは一切の不備もなく入念に「宇宙服」を身に着けて、心を決めてから広大な宇宙へと泳ぎ出す。

 

ただ、ときどき、私は旅の目的を見失う。なぜ旅をしているのか。なんのためにしているのか。旅をして何を見るのか。旅をした先にいったい何があるのか。そこで疑問が浮かんだからといって、目の前に正解が彗星のごとく飛んできてくれるわけではない。私は真っ暗でだだっ広い宇宙の片隅でひとり、ぽつんと浮遊しているだけだ。

 

言わずとも知れたそのような単純な疑問は、例えば私が岸くんの何かに不快感を抱いたとか、いわゆる熱が冷めたとか、そういう理由から生まれるものでは決してない。ただ、突然、ふいに降りてくる。なんでもないときにふと「あれ、私いまここで何していたんだっけ」と立ち止まって顎に手を触れるような感覚で、「あ、いまの瞬間の顔好きだな」「こういうコメント胸が震えるな」と感想というには甚だしい程に語彙力を失った感想がぱっと頭に思い浮かぶのと同じように、私のなかに突如として芽生える。

そして、ひとしきり考える。どれだけ頭をひねっても、逆立ちしても、決して答えの出ない疑問について、宇宙をふわふわと浮遊しながら私はひたすら考えあぐねいているのだ。

 

アイドルという孤高の存在は、まるで宇宙の神秘のように魅力的である。壮大で儚い。太古の昔から万物の霊長は宇宙に想いを馳せ、希望を託し、夢を描き続けてきた。その永い歴史をもってしても解き明かせないからこそ私たちは渺茫たる大宇宙に今も翻弄され、求めずにはいられない。これはまことに私がアイドルに求めるそれに合致する。

画面のなかで笑顔を見せる彼しか、ステージの上で歌い踊る彼しか、私たちは知らない。だからこそ好きでいられる。太陽に照らされ光源となりうる月のように、「私たちがどれだけ目をこらそうと肉眼では捉えられない表情が確かにある」と認める部分があるからこそ、強く、強く、惹かれてしまうのだろう。

 

ただ、その正体がなんなのかわからなくて、ときどき怖くなることがある。宇宙における自分は何者なのか。岸くんを好きでいる自分は何者なのか。岸くんを前にした私はただの宇宙を漂うひとりの旅人なのに、その一人称からはみ出して、まるで月か太陽かもしくは何か大きな惑星の上から、俯瞰した自分をはじき出そうとするときがある。そんな自分が怖くなって、「岸くんと私」とはいったいなんなのだろう、とふいに眠れなくなる夜がある。

 

「岸くんと私」の関係は、月と地球のようなものなのかもしれない。そのような考えが頭に浮かんだとき、突然、心の中でざわついていた虫がしゅんと静まり返った気がする。

 

月は地球のまわりを公転している。単純な私たちは、アイドルである彼らについてあたかも全方位から知り尽くしたようにわが物顔になってしまうが、実のところ、私たちが彼らのまわりをぐるぐると周回しているのではなく、アイドルのほうが私たちのまわりを器用に抜かりなく回り続けているに過ぎない。

私たちが決して立ち入ることのできない、目にすることのできない彼らの世界がある。にこりと笑顔を振りまきながら、その裏側を決して私たち見せることはない。太陽というスポットライトが当たってこそ真っ暗な夜を煌々と照らし、私たちの道標となってくれる月だけれど、闇夜のなかに隠れて目に触れない彼らの一部というものは、確かに存在している。

 

その光の加減によって私たちは彼らを近くに感じたり、遠くに感じたりするが、私たちの距離が大きく変わることはない。顕著に離れはしないし、近づきもしない。例え、私たちがライブやイベントで彼らに物理的な近さを感じようが、渡米の夢を語る彼らに精神的な遠さを感じようが、月の軌道は地球からおおよそ一定の距離にある。例外的に月食が起こることもあるけれど、ほとんどの場合、それらは単なる錯覚ないしは各々の主観に他ならない。

 

仕事や、家事や、学校生活といったアイドルと結びつくことのない私たちの実生活を、夜に対して昼と定義するならば、昼間の彼らはそっと私たちを見守ってくれている。心が折れそうなときにまっさらな空を見上げれば、時折うっすらと顔を出して、私たちを励ましてくれているようにも思える。

 

そんな「アイドルである彼」と「ファンである私」の実質的な距離が、果たして「近い」というべきなのか「遠い」というべきなのか、私にはわからない。しかし、「岸くんと私」は確かな距離を保っているから好きでいられるのだと思う。岸くんが今日も画面のなかで確かに「岸くん」をしてくれていて、それを画面の外で微笑ましく眺めているわたしは間違いなく「私」なのだ。それだけは揺るぎない。その距離を留めておくことが、「岸くんと私」でいられる唯一の原理なのだと思う。

 

いまなお宇宙についてはいくつもの研究がされている。著名な学者たちによって唱えられるそれらのひとつひとつが、私にはとても難しくてよくわからない。まず発想が想像外にあるし、そのような疑問すら思い浮かばない、丁寧に解説されたとしても、それを理解しようとも思わない。

宇宙のしくみというものは、恐らく地球上に生きる私たちが解き明かしてはいけないパンドラの箱のような謎にあふれているのだろう。解き明かすまでの過程がロマンであって、小学生が学ぶ加減乗除のように当たり前の存在になってしまえば、それまで溢れんばかりに光放っていた唯一無二の魅力は途端にかすみ始めるに違いない。

 

月は毎年、地球から三センチずつ遠ざかっているという。何億光年向こうの星が光り輝いて見える宇宙空間における〝三センチ〟という距離は、アスファルトの上で一瞬にして乾いてしまいそうな雀の涙だ。例えば、その距離が伸びていくことによって、私たちが過ごす一日の長さだったり、地球の傾きだったり、地球上でこそ生きていられる私たちに大きな影響を及ぼす可能性もなくはない。

ただ、それはずっと遠い先の話だ。私たちが死んでから、ずっとずっと後の話だ。昨年離れた〝三センチ〟がきょうの私たちにもたらすものは、ぶらりと垂れさがったなんの変哲もない日常だけだ。いま、離れていく〝三センチ〟は、確かにいつか私たちの生活を大きく変えることになるかもしれないけれど、彼らは今日もまた、変わらず私たちのまわりを一定の距離を保って回り続けているに過ぎないのだろう。

 

それでも私は思う。夜半になると、窓から覗く月を見つめて考える。

 

地球にいる私たちは月の存在を強く認識しているけれど、月にとって地球はどういった存在なのだろう。ひとりひとりの人間なんて見えていなくていい。闇夜を照らそうと一生懸命に身を挺さなくてもいい。ただ、その距離から、「地球は美しいのだな」「地球がそこにあってよかったな」と、月がそう感じていてくれるのであれば、私はそれだけでいい。

 

そんなふうに思う、12時がすぎても523日の魔法が解けないアラサーの独り言である。

きしくんとみたい映画/その1

Duet6月号、岸くんが近況についてこう述べていた。

「洋画を観るのが多いよ。今はマフィア系にハマってる」

マフィア系・ギャング映画といえば、映画ファンはたいがいオールタイムベストに挙げるし、どんなに古くても今もなお色褪せない名作が数多くある。そんなギャング映画の中で、私が岸くんとみるならどんな映画がいいだろうと考えてみた。


ギャング映画を語るうえでまず外せないのが、フランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」だ。NY五大ファミリーの一角であるコルレオーネ家を守るドンの栄光から逝去するまでの経過を辿りながら、ギャングの世界の表と裏、仁義と裏切り、家族愛が描かれるこの作品は、こと派手なアクションに偏りがちなギャング映画というジャンルのなかで、重厚で哀愁深い、人間味のある男たちの物語を作り上げることに成功した。どのシーンを切り取っても映画史に残る名シーンばかりである。
個人的には主人公ヴィトを演じたマーロン・ブランドの貫禄が好みでパートⅠが好きなのだが、周囲にはパートⅡが最高傑作だと言う男も少なくない。岸くんはどちらが好みなのだろう。何にせよ、本編、続編ともにアカデミー賞に輝いたシリーズ映画は後にも先にもこれだけである。


アンタッチャブル」も非常に魅力的な作品である。この映画には、世界一有名なギャングと言っても過言ではない、かのアル・カポネが登場する。アメリカの闇社会に名を馳せたギャングの帝王を捕まえるべく集った四人の男たち。実際に逮捕した捜査官の自伝を元に作られており、脚色はあれど、事実は小説より奇なりとはよく言ったと思う。
ちなみに、「花のち晴れ」のなかで某有名シーンがオマージュされたことも記憶に新しい。

次に挙げるのが「グッドフェローズ」。この作品も実在したマフィアが題材となっており、主演はレイ・リオッタ、脇を固めるのがロバート・デニーロジョー・ペシなのだが、このふたりがとにかく良い味を出している。人の良さそうなノッポの男と陽気で愉快な小太り男が、まるで歌でも歌うように次々と殺戮に手を染めていく様は狂気で傑作。
音楽に合わせたテンポの良い展開となっているため、ギャング映画のなかでも圧倒的に見やすい。

最後は「フェイク」。ギャング映画のなかではカリスマ的マフィアを演じることの多いアル・パチーノが、珍しく落ちぶれた下っ端マフィア・レフティを演じている。そこに潜入捜査で近づくのがジョニ―・デップ演じるドニー。ドニーはうだつの上がらないレフティを尻目に首尾よく功績を挙げていくのだが、それでもなお信頼を寄せてくれる彼に捜査官としてあるまじき情が沸き始め、マフィアと捜査官、二つの顔の狭間で苦悩する。
そのラストには、ギャング映画には珍しい余韻が、いつまでも消えない至高の映画だと思う。

ここまで読んでいただくと良くわかると思うのだが、ギャング映画を語るうえで決して欠かすことのできない名優がデ・ニーロとパチーノである。もしも岸くんのなかでギャング映画が一大ブームになっているのであれば、このふたりの出演作も多く鑑賞しているのだろうと思うと胸が震える。
上記以外にもデ・ニーロであれば「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」、パチーノはアル・カポネをモデルに描かれた「スカーフェイス」や「カリートの道」などがある。二人が共演した「ヒート」という意欲作も語らずにはいられない。ということでかなり悩みに悩んで上記四作品を選出するに至った。

きしかい幸福論

まるで誰かのサプライズバースデイでクラッカーを鳴らす瞬間のように、「せーのっ」と声をひそめた岸くんは、少年のようにキラキラした目で周囲を見渡し大きく息を吸い込んだ。


「ハッピー、バースデイ!」


その後方、彼からすれば左後ろに、海ちゃんは立っている。彼の「せーの」に合わせて「ハッピーバースデイ」と口にした。まるで弾けたポップコーンみたいに勢いよくカメラの前に飛び出していく岸くんを、白い歯を見せながら目で追っている。そして、満足そうに戻ってくる岸くんを、よりいっそう優しい表情を浮かべ出迎えた。


これは2019年の岸優太くんのお誕生日に公開された、ファンクラブ動画である。わずか二分と少しの映像に、こんなにも愛らしいきしかいの幸福論が詰まっていようとは。このとき、微笑ましく画面のなかの彼らを眺めていた私たちは、やがてこの平和で愛おしいコンビがメンバーはおろか朝のワイドショー番組すらも巻き込む公式「ビジネス不仲」を生み出そうとは、露ほどにも思わない。



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さて、メンバーたちの「おめでとう!」に出迎えられた岸くんは、感謝を述べながら両手の三本指を立て、にこにこの笑顔で「23歳になりました!」と声高らかに叫んでいる。ここで間髪入れずに海ちゃんは、昔理科の実験でみた砂鉄のようになめらかな動きで岸くんにぴたりと張り付いた。彼の手首を抑え込む。〝僕23歳になりました!(※間違いです)〟という重要なテロップが表示されているにも関わらず、私たちはこのふたりの密着度から目が離せなくなってしまう。


〝操り人形〟だとか、〝羽交い絞め〟だとか、それにふさわしい表現はたくさん浮かびもするが、私が見るに、どうもこれは「一歳児が親の手を取って一生懸命動かそうとしている図」に見えて他ならない(説明が下手くそで申し訳ないけれどこれで伝われば嬉しい)。動かし方も何をしたいかもわからないくせに、大好きな大人の手を自分の意のままに動かそうとする本能的なしぐさ。岸くんがどう動かそうとしていようがおかまいなし、ぐいーっと腕を広げてみたり、片腕をあげてみたり、それで満足そうに白い歯を見せて笑っている。可愛い。


「24でしょ?」とメンバーに口々に指摘され、あっと慌てる岸くんにやっと手を放す海人ぼうや。「はははっ!」と顔を上げて楽しそうな笑い声をあげ、ぽんぽん、と岸くんの身体をたたく。萌え袖で優しく「どん・まい」と励ますリズムでたたくしぐさもまた可愛い。


話すときによくみせる岸くんの癖で、せわしなく動く両手についていけなくなった海人ぼうやは、そこで手首のガードを諦めた。代わりに、二の腕をがっちりホールドすることにしたらしい。挨拶の〆に「お願いします」と岸くんが頭を下げれば、まるで自分の息子のように「お願いします」と続けて頭を下げる。さながら、おままごとで大人相手にママになりたがる五歳児みたいな海ちゃんだ。


やがて、尺が余ってしまい、岸くんが動揺を見せると、目を細めた海ちゃんは、横から覗き込むように岸くんを見つめた。その視線があまりに愛おしいものを見つめる視線だったので、私は胸がいっぱいになった。岸くんをおもちゃに遊ぶ姿は一歳児でもあり五歳児でもあったけれど、なんだかんだ海ちゃんにとって岸くんは、尊敬も愛情も注げる大切な仲間なのだろうな、と思う。


岸くんがファンへのメッセージを口にしだすと、海人ぼうやはきれいな黒目をくるくると回して、彼の言葉を一生懸命咀嚼しようとする。いつものように岸節を発揮して、「ん?」と思えば顔をかわいくしかめたり、微笑ましい言葉にはふふっと頬をゆるめたり。アドリブスピーチ状態の岸くんがアップになると、自然と映り込む両サイドのしょうかいの百面相がとにかく可愛い。


それでも時間が余った岸くんに、海ちゃんは「リーダーとしてのあれいく?抱負とか」とぼうやらしからぬ見事な助け船を出す。しかし、引き出しがなくなり、カメラも忘れて背を向けながらメンバーにフォローを懇願する岸くん。ひとり岸くんの言葉に耳を傾けるも、容赦なくほかのメンバーに切り捨てられるさまを、やっぱり海ちゃんは楽しそうに「はははっ!」と空を見て笑った。


覚悟を決めてカメラに向き直った岸くんの背中に、二度。ぽんぽん、と。今度は「どん・まい」ではなく、「がん・ばれ」と。そのメッセージを手のひらから背中に託し、いつもの柔らかく、さりげない口調で海ちゃんはこう言った。


「岸くんの日なの」


その言葉は小さくて短くて、恐らくテンパっていたであろう岸くんの耳にただしく届いていたかどうかはさだかではない。それでも、彼なりの言葉で懸命に期待に応え、言葉を紡ごうとする岸くんの背中を、海ちゃんは優しく、大切に見守っていた。


そして尺も埋まり、無事に抱負の台詞も決まると、やっと安心した笑顔を見せた岸くん。連動するようにして、海ちゃんが今日一番の弾けるような笑顔を見せた。軌跡を残すようにして「マイバースデイ!」と叫んだ岸くんの後ろ姿に、最後、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


「はははっ!」

彼らは何者か? -「未満警察」に寄せた期待値

そもそもオリジナル版は「彼女が欲しいという不純な動機で夜の街に繰り出したところたまたま事件に遭遇し、意図せず真夜中の街をあちらこちらと駆けずり回ることになってしまった」という偶然によって引き起こされる若者ふたりの一夜を映したクライムストーリー。警察大学への入学シーンにはじまり、何もかも正反対のふたりがひょんなことから親しくなっていくなれそめから事件の顛末までを語るには少々スピード勝負なところが否めないけれども、二時間弱で描くにはまあちょうど良いプロットではある。

対して、今回日本版でリメイクされるのは、ワンクールの連続ドラマ枠。恐らく基本的には一話ないし二話完結型、毎回ゲストがあって、何らかの事件があって、それをふたりが試行錯誤・切磋琢磨しながら解決していくという展開になると思う、というかそういう展開になるとしか思えない。
オリジナル版では、とある真夜中に被害者を助け出すべく街を奔走した、一夜限りのできごとの意味で「ミッドナイト・ランナー」(=真夜中の走者)という深く首肯せざるを得ないまさしく納得のタイトルがつけられているが、いくつも事件が起こる(であろう)ドラマのタイトルにも「ミッドナイト・ランナー」を残されている。これは、「なんだかんだ毎回事件に巻き込まれ、なんだかんだ毎回真夜中に走り回るはめになり、なんだかんだ毎回事件を解決していく」、意図の是非問わず必ず真夜中に走るふたり、というのがドラマの約束事になることを示唆している。
約束事というのは、たとえば「水戸黄門」で言えばお銀の入浴シーンであるし、「金田一少年の事件簿」で言えば「じっちゃんの名にかけて」の名ゼリフ。こういう作りはとてもセンスを感じるし、非常に興味深い。

〝若いイケメンが純粋な正義感によって猪突猛進に悪に立ち向かうドラマ〟はこの世にゴマンと存在するが、この「なんだかんだ〝毎回〟真夜中に走り回るはめになる」という一風変わった各話での共通項、つまり約束事が肝になってくるであろうこのドラマ。ただ単に〝若いイケメンが純粋な正義感で(以下略)〟に留まらないドラマの見方があるので、大変面白い。得てしてこうした作品は、ラスボスへの伏線にもなるし回収が見事なので期待感が高まってしまう。

さて、オリジナル版を観て私が感じたのは、このプロットの面白さは決して〝若いイケメンが(以下略)〟という部分にあるのではなく、正直はじめてタイトルを聞いたときにはつい鼻で笑ってしまった「未満警察」というタイトル前半部分に由来する、ということだ。
というのも、そのことに改めて気づいたのは映画の中盤あたりのこと。追いかけていたはずの犯人たちに逆に追い詰められてしまったふたりが、「お前ら何者だ?」と尋ねられるシーン。このセリフ、エンターテイメントという文化がこの世に誕生して何十年、何百年と使い古されてきたセリフではあるのだが、彼らがいわゆる「未満警察」という立場にあることで、あまりにありきたりで古典的なこのセリフがだいぶ重要な意味を担ってくる。ふたりは被害者の知り合いではない、もちろん警察官でもない。尋ねられた時の彼らはまさしく何者でもなく、どうとも答えることができずに口をつぐんでしまう。

このくだりが、あとの展開で非常に効いてくる。恐らくドラマでは第二話にこのエピソードが盛り込まれてくるそうなので、この回でこそぜひ使ってほしいセリフ。だってこのセリフこそ、何者でもない「未満警察」の立場にある彼らが、事件を解決すべく奔走していく大きなきっかけとなるはずだからだ。
このセリフとシーンは、絶対になくてはならない。ドラマの主軸である〝普通の学生以上、警察官未満〟を最大限に生かすために。そういうわけで、第一話はドラマ世界への導入という役割のみで、彼らが「未満警察」に目覚めるきっかけはまだ描かれないであってほしいとささやかに願っている。あまりドラマに関してあれやこれや意見したことがないので強くは言えないけれど、これだけは重要性を感じている。

そう考えると、オリジナル版に登場する事件自体は何のひねりもなければどんでん返しもない、教科書通りの展開が容易に読めるものだったので正直辟易したものの、こうして少し視点を変えたところに隠されている重要なポイントにはっとさせられ、「確かにこれはリメイクしたくなるほど面白い部分が組み込まれているな、そんな作品のリメイクを平野くんと健人くんで見られるのは最高だな」という感想に到達した。

こうしていったん作品の魅力をこの目に認めてしまうと、主人公のあらゆるシーンにおける些細な一挙手一投足に平野くんを重ね、ついわくわくしてしまう。単純バカ。憎めないバカ。とにかく愛しい。肉につられて入学を棒に振りかけるし、重要な任務に際していても深夜のカップラーメンにはとことん弱い。でもいざとなった時には目の色を変え、敵をバッタバッタとなぎ倒していく様は少年漫画のヒーローさながらだし、想像しただけで家じゅうゴロゴロ転がって悶えても足りないくらいにキュンキュンが止まらない。
ずっと少女漫画のヒーローを演じ続けてきた彼だけれど、個人的には「ああ、やっとついに…」と感慨深い心持ちでいっぱいである。少女たちのヒーローが実はヘタレであれドSであれ、彼が演じるうえで〝少女も惚れるかっこよさ〟は確かに全く反論の余地がないほど完璧な合致ではあるが、どこかしこりのような違和感が少なからず私のなかに残っていたので、こうして気概溢れるクライムアクションに今の年齢を生かした役で挑戦できるということは、いちファンとしてとてつもない欣快の至りではある。

俳優・岸優太に想いを馳せてしまった映画 ①

「fukushima 50」を観た。
 


佐藤浩市×渡辺謙主演!映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)予告編

 

 2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故で、未曾有の事態を防ごうと現場に留まり奮闘し続けた人々の知られざる姿を描いたヒューマンドラマ。2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0、最大震度7という日本の観測史上最大となる地震が起こり、太平洋沿岸に押し寄せた巨大津波に飲み込まれた福島第一原発は全電源を喪失する。このままでは原子炉の冷却装置が動かず、炉心溶融メルトダウン)によって想像を絶する被害がもたらされることは明らかで、それを防ごうと、伊崎利夫をはじめとする現場作業員や所長の吉田昌郎らは奔走するが……。(映画.comより) 

 
今この時期にコロナウイルスが世界的に蔓延している現状を、改めて恨みたくなるほど素晴らしい作品だった。今こそ現代人が皆見るべき傑作。フィクションには決して作ることのできない臨場感。闘う男たちの溢れる気迫。かっこいい以外の語彙はない。とにかくすごい。2020年という記念すべき年に、世界に発信するという存在意義。全人類が知るべき史実。歴史が動いた瞬間のドラマを、私は確かにこの目に見た。それくらい気骨溢れる熱い男のドラマだった。
 
そこで思う、私はもしかして、岸くんにはこういう作品に携わってほしかったのではないか、と。
 
岸くんに演じてほしい役は幾つもある。それこそ挙げ出したらキリがない。戦争映画で決死隊として戦場に飛び込んでいく若き一等兵、上司にビシバシしごかれるフレッシュな新入社員、若くして両親を亡くし妹弟を養う明るいお兄ちゃん。あらゆる設定のなかに身を置く岸くんを想像し、悶え、その夢に想いを馳せた。その結果、総合したのがこの作品なのでは?と帰り道の車内で考え付くに至った。
 
現代の日本を舞台とした戦争映画と位置付けても過言ではないほど、恐怖と緊迫、男たちの血気を感じられるし、漢気溢れる上司の元で働くことのできる誇りと意地を見せる若者たちが登場するし、それでもやっぱり残された大切な家族のことを思い、自身の使命と保身の間で葛藤する姿も描かれる。
 
それって私が見たい俳優・岸優太のすべてじゃん。
私が夢にまで見た俳優・岸優太のすべてが詰まってるじゃん。
 
というか単純に、私は佐藤浩市と共演してほしいと思っている。それこそこの、福島第一原発で事故を防ぐため命を捨てる覚悟で現場の対応に当たった男たちのひとりを岸くんが演じてくれるならこれ以上のことはない。佐藤浩市を始めとした日本を代表する中年俳優様方と、骨太な演技合戦を繰り広げてくれるなら私は何回だって何十回だって映画館に通い詰めるのだが、歴史に残る大事故を題材としたこれほどの大作は今後十年は現れないと思うので、いっそどんな作品でもいい。
確執が少しずつほぐれていく不器用な親子の役でもいい。大企業や不景気に立ち向かう中小企業の上司と彼に憧れる実直な部下という骨太な社会派ドラマでもいい。とにかく同じカットのなかに収まる佐藤浩市と岸優太のツーショットがみたいのだ。それだけで私は本懐を遂げて無事あの世へ行けますね、という心持ですらある。
 
長くなった。何が言いたいのか忘れるほど話が脱線してしまったが、これはとにかく「fukushima 50」、過去に類を見ないほど甚大な自然災害による、未曾有の大事故を防ぐべく命を懸けて奔走した男たちが、世界を巻き込むほど重篤な危機と取り付く島もない国家という強靭な敵に立ち向かった男たちが、とにかくかっこいい映画だった。
普段は冴えないおっさんだったり、鬱陶しいおっさんだったり、とにかく嫌な奴すぎるおっさんだったり、に傾倒している中年俳優たちが、揃いも揃ってかっこよく見えてくる映画だったから落ち着いたらぜひ観てよって話です(脱線しすぎだ)

追伸。とにもかくにも「かっこいい」を連呼してしまう感想及び岸優太に関する虚妄になってしまったが、そんな安っぽい言葉で片付けられるような映画では到底ないことはきちんと伝えておく。重いし、深いし、考えさせられる。あらゆる立場のあらゆる男たちが闘った、作品のなかでヒールとして描かれる男たちも果たして行き着く目的地は同じなのだ、それぞれの正義がある。日本を襲った大災害、繰り返してはならない悲劇の大事故を私たちは忘れてはならない。目に焼き付けておかなければならない。そのためにも、勇敢に闘った男たちの記録を私たちは知っておくべきなのだ。

………という感想を書きたくなるような作品にとにかく出てほしいので、首を長くして私はまっています(まだ言う)

笑顔にさせるでもなく、笑顔にできるでもなく、笑顔を生み出すひと

「岸くんは、〝笑顔にさせる〟人でも、〝笑顔にできる〟人でもなく、〝笑顔を生み出す〟人なんじゃないかな」



「笑顔」がテーマである先日の少年倶楽部を見終え、私はふとそんなことを思った。


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岸くんの周りは、いつだって笑顔に溢れている。彼らの微笑ましい話を聞いたり、何気ない一瞬を切り取った写真を眺めたりするたびに、私はついそんな景色を想像してしまう。

少年倶楽部トークのなかで、神宮寺くんと永瀬くんが例に挙げてくれた楽屋でのエピソードもそうだった。彼の一挙手一投足で誰かが笑う。何でもないことで笑顔になる。いわゆる笑顔の連鎖みたいなものが、彼の周りには自然と生まれているような気がする。


ただ、恐らく岸くんという人は、無理やり誰か笑わせようとしたり、笑ってもらうことだけを望んだりするような人ではない。彼がそこにいるだけで、ほっとして笑顔になれる人がいる。おのずと笑顔が生まれていく。まさに、〝笑顔を生み出す〟人。岸くんと「笑顔」を結びつけるにあたって、そんな表現がいちばんしっくりくるのではないか、と私は考えるようになった。


たとえば、アイドルという職業柄、「人を喜ばせたい」を信条とすることは決して珍しいことではない。ハードではなくソフトな意味で、アイドルの役割というのはつまりそういうことであるし、過酷なアイドルの仕事を続けられる理由をそこに見出す人もグループ内外問わずたくさんいるだろう。

それでも彼に関しての「誰かに喜んでもらうこと」、あるいは「誰かに幸せになってもらうこと」にまつわる概念は、恐らくその次元とはまた別の、とても深い何かに基づいているように思う。



今でも思い出す、ジュニア時代に出演していたバラエティ番組「ガムシャラ」。ジャニーズJr.が何人かでグループを編成し、それぞれライブで披露するパフォーマンスがあった。そして、その練習に密着した特別番組が放送されていた。いったい何に向かうのか、いったい何のためにそこまで必死になるのか。そんなことは恐らく一ミリも考えていない、ただ無心で懸命に練習に励む若い男の子たちの姿がそこに映し出されていた。


その番組の終盤、ふいにこんなナレーションが流れてきた。


「彼らにとって、ジャニーズとは何か?」


驚いた。そんな質問を番組のラストに持ってくるとは、まるで思いも寄らなかった。理屈や道理や難しいことはすべて置き去りにして、いままさに〝ガムシャラ〟に走り抜けようとしている十代の彼らに向かって、そんな身も蓋もないことを尋ねるのか、と私のなかに何とも言えないじとっとした感情が一気に駆け巡った。
しかし、暖色じみた部屋のなか、さながらドキュメンタリー番組といった風にソファに岩橋くんと並んで腰を下ろした彼は、思慮深く迷うことも、はっきり断言することもなく、静かなトーンで口にした。


「人を幸せにするんじゃないですか。人を」


この言葉をはじめて聞いたとき、この人はなんて優しい人なんだろう、と思った。

「岸優太にとってのジャニーズ」を聞かれているのに、「人にとっての幸せ」と答える。言い換えれば、主語は「自分」ではなく顔も名前も知らない「誰か」であって、自分がどうであるかは二の次なのだ。まるで見ず知らずの「誰か」の心を当たり前のように真っ先に思い浮かべる人なのだな、と彼の存在をそこで改めて再認識した。


わざとらしさもなければ、いやらしさもない。偽善ではなく、畏まるわけでもなく、彼はただ無自覚に、無意識に、生まれながらにして身体に染みついた一種の〝癖〟のような感覚で、相手のことを想像してしまう人。

つまりはそんな「誰か」の幸せのために、ジャニーズのなかの岸くんは、汗をかき、涙を堪え、いろんなものを我慢してここまできた。「人にとっての幸せ」をイコールで結びつけるようにして、彼は「岸優太にとってのジャニーズ」を形成してきたのだとも言える。


「人を幸せにするんじゃないですか。人を」


それはまるで、カメラの向こうにいる自分よりいくつも年上の誰かを優しく諭すような、どこか達観したように穏やかで強いひとことだった。いつものごとく何度も小さく頷きながら呟く姿は、自分が吐き出したその言葉を、自分自身でもう一度味わうようにゆっくりと咀嚼しているみたいだった。



そこで私の脳裏によぎったのが、昨年単独で登場したSODAでの何気ないひとことだった。「きっと、ファンの方も僕が楽しんでいる姿が好きだと思うので」。聖者でもなければ偽善者でもない、23歳のアイドルの彼はただ自然体で等身大にそう語っていた。


「ファンの方たちに夢とか元気を与えられたり喜んでもらえるようになるためにも、まず自分がいろんな形で夢を叶えていきたい」

「ファンの方を『最近お仕事が少ないね』って不安にさせたくないので」


夢を叶えて元気になるのも、仕事が少なくて不安になるのも、本来なら主語は必ず自分であるはずなのに、彼はその主語に「ファン」を置く。自分のことはいつだって後回し。

つまり、これこそが彼の〝癖〟なのだ。自分の行動が誰かの「幸せ」につながることをきちんと理解しながら、その「幸せ」がやがて自分の「幸せ」に結ばれると信じている。


自分の「幸せ」は相手ありきであるが故、相手の「幸せ」に自分のすべてを委ねてきた岸くん。それはきっとファンに対しても、メンバーに対しても、仕事で関わるキャストやスタッフ、もちろん自分の身の回りの人に対しても、常に同じ想いを抱いているのだろう。誰に対してもフラットに、相手にとっての最善を願う。だからこそ、彼の周りには絶えずして笑顔が溢れているのだ。


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いつだって相手を優先する、相手の気持ちをいちばんに思える優しい人。
自分のことは後回しで、誰かのための何かであればいいと自分の存在意義を唱える人。

岸くんは、自分にできるその「誰かのための何か」が「幸せ」であればいいな、とささやかに願っているような人だ。無理強いすることなく、あからさまにすることもなく、ただひそやかに願っている。こちらに気づかせないようなさりげない強さで、どうしたって抜けそうにない〝癖〟のような当然さで、そっと願ってくれている。
だからこそ私も、彼に見えない背中のほうからこっそりと、こう願わずにはいられない。

彼の存在が、ひとつでも多くの「笑顔」を生み出しますように。
そしてその「笑顔」が、巡り巡っていつか彼の「笑顔」にたどり着き、「幸せ」の連鎖が彼のもとでどうか永遠にとわに続きますように、と。

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